フィリピンで日本軍に捕獲されたのは、装甲板が前部のみの初期型であった。
量産されたタイプは上部と側面を覆い被せたもので写真などで多く見られるが、初期型についてはあまり写真が残されていない。
生産された数がごくわずかだったのだろう。
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1941年10月31日、アメリカ軍はM3 75mm 対戦車自走砲を制式作用している。
1943年までの間にオート・カー社で2,202両が生産された。
1941年12月、フィリピンでの日本軍との戦いが初戦となった。
火砲は75mm野戦加農砲M1897A4を装備し、直接火力支援と対戦車戦闘の2つの任務を持っていた。
1942年4月、バターン半島のアメリカ軍が降伏すると、日本軍は捕獲したM3対戦車自走砲を再利用している。
1944年からのフィリピン攻防戦では、ルソン島の防衛を担当していた第103師団の砲兵部隊で運用され、4両のM3対戦車自走砲がアメリカ軍に砲火を浴びせている。
日本軍での使用間、再塗装された形跡は無く、米軍そのままのオリーブドライブ(OD)色であったようだ。
米軍との攻防戦時には、捕獲から数年以上経過していることと、灼熱の太陽光を浴び、錆まじりのかなり退色したOD色だったことが想像できる。
塗料の調合によって異なるが、OD色は退色すると艶のない赤茶けた色か、灰色っぽい色合いになってしまう。 |
「丸」2012年1月号購入をきっかけにM3対戦車自走砲、4式自走砲及び十九試 陸上哨戒機 「太洋」を制作することができた。
これだけ制作意欲が高まったと言うことは、1100円の価値はあったと思う。 |