この写真を初めて見た時、場所が姫路と言うこともあり、背景の山々がどこか見たような光景と思った。
それもそのはずで、中央後方の山が広峰山で右側に増位山へと連なっている。その麓の白国に住んでいた。
5・6年前周辺の方々にお話を伺う機会があった。
その時、この写真の裏付けとなりそうな話としては、近傍に人が終戦直後の夜間、戦車が運び込まれたと言う話である。
もう一つは、現姫路駐屯地の北東の角地(駐屯地内慰霊碑付近)に戦車が置いてあったのを子供の時に見に行ったことがあるとのことである。
もともとこの地は、第10師団隷下の砲兵、騎兵、輜重兵が駐屯していた場所であるが、戦車部隊はいなかった。
そのため終戦時以降、姫路に戦車を移動させてきたのは事実のようである。
では、この戦車はどこから来たのかと言うと青野原(小野市)にあった騎兵学校からである。
この付近の地を陸軍は加古川といい、海軍は姫路といっていた。
どちらも違うのだが、青野原という地名を言っても知らない人が多いはずで近傍の著名な都市名で位置を表現した。
この青野原は、もともと戦車連隊の駐屯地で戦車第6・第19・第42連隊の編成地でもあった。
戦車連隊が去った後に騎兵学校が移駐し、中戦車34輌(可動12輌)、軽戦車18輌(可動8輌)、装甲車4輌(可動1輌)、牽引車4輌(可動1輌)を保有していた。
種類は97式・3式中戦車、95式・98式軽戦車、98式6t牽引車等であった。
現在この場所は、青野原療養所となっている。
その他に青野原近傍には海軍航空隊の姫路空があった鶉野飛行場があり、現在滑走路跡が残っている。)
この写真の撮影された場所は、現姫路駐屯地内特科隊本部隊舎裏の厚生センター付近と思われる。 |
@ 97式中戦車: 当初4式軽戦車(95式軽戦車の車体に97式中戦車の砲塔)と思っていたが、どうも97式中戦のようである。
A 3式中戦車:計3台確認、B 98式軽戦車:計2台確認、C 95式軽戦車
○ A3式中戦車の後方に装軌車(けん引車)らしき車両が確認できる。
これは98式6t牽引車のようである。本来は榴弾砲や加農砲などの牽引用であるが、戦車回収車としても使用されたようである。 |
余談(旧軍関係者及び周辺住民からの聞取調査) |
1 昭和20年、現姫路駐屯地に招集を受けた方の話によると人の姿も少なく閑散としていたそうです。
2 米軍の進駐を受け、武器等の引き渡しの祭、計算し易いように20個とか50個とまとめていたが、米軍兵士は1つ2つと1個づつ数えていたらしい。
かけ算もできない者に負けたのかとあきれかえったそうである。
3 米軍に引き渡した物品は、写真の背後に写る山の谷間に投棄し埋め立てたそうである。周辺の住民はそれをしっかり見ていた。
4 米軍はこの場所には駐屯することなく姫路城近辺にいた。駐屯地は立入禁止となっていたようだが、無人となった駐屯地は周辺の住民の姿があった。
窓ガラスや板材を持ち帰って再利用していたのである。警戒にあたっていた警察?も黙認していたようである。
警察予備隊が発足した時には、草深い敷地内には何も残っていない無惨な隊舎だけが立ち並んでいたそうです。 |