一枚の写真から
源平水島合戦の真実
 「水島の門(と)を隔てて相向う柏島には平家方  乙島には木曽義仲の客将率いる源氏方が陣取り
 時将に寿永二年(一一八三) 閏十月一日 壮烈な海上戦となって  源氏方が惨敗海の藻屑と化した
 空には日蝕が現われ 西風の強い日であった 
 平家は水島のいくさに勝ちてこそ会稽の恥をば雪めけれ」 この文で平家物語の水島合戦の章を結んでいる。
写真: 柏島(良寛荘駐車場)から乙島を望る
【寿永2年(1183年)】

 清盛が没した翌年の寿永2年(1183年)は、閏年と日食が重なった特異な年であった。
 この時代の暦は太陰太陽暦を使用していた。
 太陰暦による1年は354日、太陽暦の365日よりも11日短い、これを続けていると暦と季節が大きくずれてしまう。その解消方法として3年に一度閏月を設けることで誤差を修正した。閏月を設ける年を閏年と呼び、1年は13か月となった。
 閏年である寿永2年は、10月の次ぎに閏月を設け、10月、閏10月、11月、12月となったのである。
 反平家側との戦いに次々と破れ、都を離れ福原・太宰府等を転々とし、最終的には屋島に拠を定めた。
 平家が西へ下った理由は、播磨・淡路(兵庫県)、阿波(徳島県)、讃岐(香川県)、備中(岡山県)、周防・長門(山口県)を知行国があったことと屋島(香川県)と赤間ヶ関(山口県)は海上交通の拠点もあり、瀬戸内周辺は平家の勢力圏であったからである。
 平家が屋島に到着した時期は記録から見つけることはできなかったが、後白河法皇が平氏追討軍を差し向ける少し前あたりの9月頃と推測する。
 平家が屋島に集結中の報が都に届いたのであろう。
 寿永2年(1183年)9月20日、義仲は後白河法皇の要請により西国の平氏追討軍を差し向けることとなった。
 あまり乗り気のない義仲に詳細な作戦があったわけではない。
 大雑把な経路と目的地を示した程度に過ぎなかったと思われる。
 こんな指示だけで動ける当時の軍隊は、ある意味関心できる。
【吉備穴海と備前国児島】

 児島と本土の間の海峡を「吉備穴海」と呼んでいた。
 吉備穴海は、古代から瀬戸内海での航路にあったが、藤戸の合戦で佐々木盛綱が馬で渡れるほど浅瀬になっていた所ができたため、平安後期頃には航路から外れていたと思われる。
 穴海には西から高梁川、笹ケ瀬川、旭川、吉井川の4つの川が流れ込んでいる。 河口には大量の土砂を運び穴海の周辺にデルタ地帯を形成していた。
 所有者のいない簿外地が出現した訳で、周辺住民が勝手に開発を行っていた。
 平安時代に入ると大化の改新以来の公地公民の制度が崩れ、貴族や有力寺社の私有地化が進み、穴海周辺には荘園が多数点在するようになった。
 荘園化はデルタ地帯に止まらず周辺の地域や島々にまで及んでいた。
 余談だが、穴海から少し西にある大島には平家の荘園があった。
 その一部を平清盛の父である忠盛が、白河法皇ゆかりの京都の六条院に寄進したことが由来の地名とされる「六条院」がある。清盛自身も厳島詣のおりにも大島に滞在している。
 児島が陸続きとなったのは江戸時代初期頃で岡山藩による干拓からである。
古代の児島は、「吉備の児島」とか「備前国児島」と呼ばれ、広大な浅い海で隔てられていた。
 古墳時代の児島に「児島屯倉」・「白猪屯倉」の設置が日本書紀等の記述に見られる。屯倉(みやけ)とは、ヤマト政権の支配制度の一つで、直轄地や直轄倉庫などを表し、地方の行政組織とも言われているが詳細については判かっていない。
 児島の南側にある田の口や下津井は古くから良港として知られ、海洋交通の中継地であるとともに、戦略的に重要な湊であった。
 また、児島が関係する源平合戦だけでも水島・下津井・藤戸の合戦と三度もあり、いかに両陣営にとって児島の地が重要であったかがお判りいただけると思う。
 ここからは島々の向こうに屋島がある四国の山々がうっすらと見えるのである。
【備中進軍】

 まずこの時点での平家側の目的を確認すると、討伐軍を撃破し京に戻ることである。
 一方の源氏側は、平家の本拠地である屋島を攻略し滅亡に追い込むことである。
 屋島を攻略するにあたり、まず備前国児島を押さえ、下津井から塩飽(しわく)諸島を経由し四国の讃岐に上陸し、地元の反平家勢力を吸収しながら、陸上と海上から同時に攻撃する策であった。
 ではなぜ備前国児島なのかと言うと、後年、義経が取った経路と同じように四国には渡れない。当時、淡路・阿波・讃岐には平家の知行地であるとともに、平家に味方する勢力が存在していたからである。
 たとえこの方法を採用したとしても、万にも及ぶ軍勢を一度に渡らせるような船舶もなく、少数づつが数度にわたり渡るとすれば、平家側により各個撃破される危険性が極めて高かった。
 今後の平家討伐戦のためにも最低限でも屋島の対岸にあたる備前国児島を押さえて置く必要があったのである。
 また、塩飽諸島は、屋島の平家側を封じ込める絶好の位置にあるが、ここは平家に味方する塩飽水軍の本拠地であり、相当の抵抗が予想される。
 後年、屋島へ向かう義経も備讃瀬戸を避けて阿波徳島から四国に上陸したほどである。
 源氏側が先に備前国児島を取っていれば、水島合戦ではなく塩飽合戦となっていたはずである。
 源氏側が児島の対岸に長期に留まっている理由として備前国児島の攻略のためとすると筋が通る。
 では、源氏側の陣が備中の何処にあったかにつては不明であるが、郷土史家の中には西岡の地に拠点があったと考える者がいる。
 平氏追討軍は7000騎と言われているが、従者等を含めると万を超える軍勢だったはずである。
 その人員を一カ所に集めておける地積や施設も無かったはずで、吉備穴海に面して西岡や万寿を含む海岸一帯に分散して陣を構えていたとするのが妥当であろう。事実、後日到着した義仲は万寿庄に入っている。
 本土と備前国児島との間はそんなに離れてはいないが、なにせ舟がなかった。
 必要とする数量の舟をかき集めることに時間を要していたのである。
【水島合戦】

 実際に水島の戦いが行われた場所と言われている地、乙島と柏島を訪れてみると両島の間は以外と近い、近すぎるような感じを受けた。
 源氏方は500隻、平家方は1000隻(人員・船舶数については諸説あり)が両島の間わずか500mほどの海峡で両軍ひしめき合いながら戦闘したとは到底思えないのである。戦略的にこの島を取り合う意味がないのである。
 確かに柏島の西には平家の荘園と良港のある大島があるが、備前国児島と比べれば戦略的価値は低い。
 水島合戦で一部の戦闘がここで行われたに過ぎない。

 水島合戦における平家側の作戦は、得意な海上戦に引き込み敵を包囲殲滅、続いて源氏の拠点に上陸し源氏軍の減殺を図りつつ備中を奪還する。であろう。
 実際に平家側は、海上戦には不必要と思われる軍馬を船に乗せており、それを意図していたことが伺える。

 児島にある呼松の伝承では、平家の大将、能登守教経が大日の森で7日7夜の必勝祈願をし、満願の日にこの浜から船を出して源氏と戦ったと伝わっている。
 また、寿永3年(1184年)1月に起きた下津井沖の合戦の折りには、平教盛、通盛、教経が下津井にいたことが判っている。そうすると平教盛親子は備前国児島を拠点としていたことが明らかである。
 前項で述べたように備前国児島の重要性を考えると伝承はまんざら嘘ではないようである。
 平教盛親子が備前国児島にいたとすれば、一方の平重衡が大島にいたと考えられ、両島の中間地点である水島の門で海戦を行ったと考える。
 源氏側の備前国児島攻略のための準備がほぼ完了しようとした時点で先に仕掛けたのは平家側であった。
 閏10月1日、まだ暗い頃(日の出前の六時頃か)に小舟に乗った軍使が源氏側の沖に現れた。
 合戦の作法どおり、一通りの宣戦布告の口上を述べた後、沖へ下がって行った。
 平家側は、軍使の派遣と同時に連島と備前国児島の沖合、水島の門において 500余艘あるなか、馬を乗せている200艘は沖に控え、300余艘を100艘ずつ三手に分け、軍船の展開を開始した。
 これは「鶴翼の陣」で、源氏側を包囲・せん滅することが目的であった。
 この陣形の弱点である側面からの攻撃受けは、地理的条件、備前国児島等の島々により弱めれれている。
 しかも平家側は太陽を背にし有利となっている。

 平家側の練りに練った必勝パターンである。
 この時点で戦いの主導権は平家側にあり勝敗はほぼ決していたと言えよう。
 一通り船列を組み終えると食事を取りながら源氏側の到着を待った。

 一方乗せられたのは源氏側で不利な条件とは知りつつも軍使の口上を受けた以上、受けざるを得なかった。
 当然さしたる作戦があったわけではなく、勢い任せの出たとこ勝負の感は歪めない。敵の術中にはまるとは正にこの事である。

 八時頃には浜にいた源氏側は500艘を一斉に海に出し、沖合で待機する平家側に正対し陣形を整え終えた。
 源氏側の軍使による口上、引き続き合戦の合図である矢合を行った後、両軍は一斉にこぎ出した。
 「腹が減っては戦はできぬ。」とつぶやいたのは源氏側の従者だけだろうか。

 合戦時に両者の装具には大きな違いがあり、源氏側は大鎧をそのまま着用し、一方の平家側は海上戦になれているため、大将を除き大鎧を着用している者は少なく、ほとんどの将士は簡易甲冑である腹当を着用していた。
 源氏側の武士がめぼしい相手を捜しても雑兵にしか見えなかった。
 源氏側の先陣を努めたのは副将軍である海野幸親の嫡男幸広であった。
 両者の間隔が近づくにつれ弓による射撃戦が始まり、舟同士がぶつかり合うと白兵戦となった。
 その時に初めて雑兵と思っていた者の身なりが身分不相応なものであるのが判った。
合戦当時の周辺図(推定)
西岡一帯に布陣している源氏側
水島の門において両軍激突
源氏側追討のため備前国児島に上陸する平家
 平家側は源氏側の船を洩らすまいと取り巻いた。
 この合戦で平家側は掟破りである漕ぎ手をも攻撃の対象としている。

 その後の壇ノ浦の戦では義経が漕ぎ手を狙ったとし非難されるが合戦の作法・掟よりも勝つことを両軍とも優先したことが伺える。
 西翼にいた源氏側の一隊が包囲網を突破し乙島に上陸し守備の平家側と交戦し破った。続いて柏島にいた平家側と狭い海峡内での戦闘が始まった。

 日食と重なった悲劇が始まろうとしている。
 「源平盛衰記」によると、この戦いの最中に日食が起こって「闇夜の如くになりたれば・・・」となったのだそうである。
 研究者によると、正午頃に食分95%の金環日食が2分程度あったと推測している。

   筆者自身も金環日食を体験したことがあるが、「闇夜の如く」までとはいかないが、上空に黄砂がかかったような濃い橙色になったのを覚えている。

 戦闘中、どの時点で日食が起こったかは判らないが、太陽に向けて進み、弓を放ち戦闘していた源氏側は日食による明暗の差が大きく暗調応(明暗順応)は遅く相手すら確認できない状況だったに違いない。一方平家側は太陽を背にしている関係で源氏側よりは速く順応できたと思われる。
 平家側の包囲網を狭めるなか、海野幸広が討ち取られる。
 その状況を背後から見ていた総大将である足利義清自身は、周囲の静止も聞かず、従者7・8人と小船で戦闘の輪に入っていった。総大将自身が戦闘に参加し味方の士気を鼓舞するつもりであったのだろうが、戦闘の最中に平家側の潜水夫によって船ごとひっくり返えされとどめを刺されてしまった。
 源氏側の海野幸親は総大将も討たれ形勢が不利と判断し、浜への退却を決意する。
 源氏側の漕ぎ手を失った舟は西風にあおられ備前国児島方向に流されていった。平家側は流された舟を追撃しながら備前国児島の浜に追いつめた。
 沖に控えていた200艘の軍馬を乗せた平家側の船はこの様子を見て備前国児島の浜に近づけ馬を次々に上陸させた。
 鞍づめが浸る程度になると、騎乗し陸へ叫んで駆け上がり、西岡方向に落ちて行く源氏側を追い詰めては、次々と討ち取っていった。 
 平家側は、海上戦には勝ったが完全勝利とはいかなかった。
 源氏側の浜に上陸できなかったのである。
 上陸出来ない理由として強い西風という気象条件もあるが、海上戦で多くの敵を撃ち漏らしたのが最大の要因となった。
 源氏側7000騎のうち、実際に水島合戦に参加した者は2/3程度で、残りの1/3は各陣地の守備に割り当てられていたはずである。
 合戦で半分ほどの損害を受けたとしても、まだ副将軍海野幸親以下4000騎余りの軍勢が残っていることになる。しかも陸上戦にはめっぽう強い。
 海野幸親の判断が正しかったのである。
 そのため、平家側もうかつに浜に上陸することが出来なかったのである。
 しかし、源氏側は総大将をはじめ諸将が討ち死する等大敗北を喫してしまったのは事実である。 

 源平合戦における平家側最大の勝利を収めた水島合戦は、定説で言われているような乙島や柏島のようなちっぽけな島の争奪戦ではなく、水島の門を中心とした広範囲にわたる海上戦であり、備前国児島の争奪戦であったと断定できる。

 最後に児島や西岡周辺には、鎌倉時代に源氏側将士の供養のため建立されたとおぼしき石灰石の墓石(五輪塔等)が多数点在する。
 時には人骨とともに出土している場所もある。
 この墓石の石灰石は付近で産出されないものであり、良質の石灰岩で知られる井倉洞のある新見市や高梁市の産であろう。
 墓石の位置を地図上に記すと西岡の地にまで点々と続くと言う。
 
文&イラスト: 中田日左人 備前国児島(現倉敷市呼松町)に生まれる。
2012年にイラスト&ライターとして歴史群像に投稿した第1作目でしたが、残念ながら丁重にお断りされた作品です。
せっかく調査・CG制作した内容でもあり、1年を経過した時点でサイト上で公表することにしました。
サンプル集(最近制作した作品)



戻る