薬師寺様式の多田寺は、奈良白鳳期(7世紀後半)に創建され、平安時代まで存続していた。
西光寺野一帯は、大正年間の大規模な開墾により、遺構すら跡形もなく破壊されてしまった。
中央の道路の切れた所付近に南大門、写真中央付近に中門があり、奥の山に向かって東塔・西塔、
金堂、講堂が連なっていたのであろう。
なお、参考のために言うと道路等は当時からのものでなく、開墾により新しく作り直した道であろう。 |
多田廃寺は研究者の資料によれば東西100m、南北200mの大伽藍となっている。
多田廃寺は8世紀後期の建立、溝口廃寺は奈良時代前期の建立とされている。
両寺は直距離で3km程と比較的近くに存在するとともに、同時代に建立されている。
地方の国、播磨に大規模の寺院が建立されていたとは到底思えない。
薬師寺の2/3から1/2程度に縮小したものを建立してのではないかと考えている。
伽藍サイズが不明確では作り続けるのは困難であるため、現在は中断している。
一方の溝口廃寺は比較的低い丘陵の上にあり、現地確認の結果、東西50m程の地積しかないこと
が判明している。
伽藍の一辺が50mと決まれば、そのサイズにあった建物を造ってゆくのみである。
大宝律令の大尺では一尺は約35.6cm、6倍で一間となる。
一間は約213.6cmとなるのだが、私は一間を2mとして3DCG製作した。 |
「貞観10年(868年)の播磨地震(山崎断層を震源とする地震) により、国府や諸寺の堂塔みなことごとく崩れた。」とある。 |