随 ・ 唐 朝 代
隋・唐朝代の革甲冑 随・唐朝代の甲冑(明光鎧)
随・唐朝 弓(弩)兵
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随・唐朝 革甲冑 No2
A
随・唐朝 明光鎧 No1
B
随・唐朝 明光鎧 Na2
C
2009年10月22日 2009年10月22日修正 2009年10月9日 2009年10月2日
中唐 敦煌莫高窟の塑像から再現した明光鎧
D
 隋・唐朝代は、同じような甲冑を装備していたと考えるため両時代の項をまとめることにした。
 東大寺や薬師寺等にある塑像のモデルともなったのも隋・唐朝代の革甲冑である。
 その時代の甲冑をモデルにしたと言うよりも莫高窟塑像に見られるような甲冑姿をコピーしたといった方が正しいのかも知れない。
 この時代には莫高窟以外にも中国国内の寺院でも同じような塑像が見られたはずで、ただそれが現存していないだけである。
 遣唐使等が持ち帰ったこれらの制作方法・様式は中国国内ではどこにでも見られたものだったのだろう。
 明光鎧は、三国時代(魏・呉・蜀)から宋代まで使用された。
 明光鎧の特徴は、胸部、背部及び腹部に円形のプレートを取り付け防御性に優れている点である。
 円形のプレートは、護心鏡と呼ばれ、鏡のように磨かれていた。
 材質は、青銅製で磨いた後に漆を上塗りして酸化を保護している。
 古来の兵法によると太陽を背にするを良しとしたが、明光鎧の場合は、反対に太陽に面して戦うが有利のようである。
 明光鎧を着用した万を数える兵士達が太陽光に反射された光景はさぞや壮観だったであろう。
 敵にとっては恐怖そのものだったであろうし、特に馬の驚きは隠せない。

 唐代においては、初期・晩期は戦乱の時代であったため甲冑も実用本位のものが主で、中期は平穏な時代だったため華美な甲冑が目立つ。
 @ 黒革製の甲と茶革製の冑を装備した弓(弩)兵
    戦場までの移動間は弓の弦を外し、戦場が近くなると弦を張った。弩用の矢を発射できる小型の弓(予備弓)を携行している。
   弩用の矢は一般的に50cm程度であるが、この兵士はやや小型の弩を装備している。
 A 明光鎧と同様の構造をしている革甲冑、指揮官クラスをイメージし製作した。
 B この作品の冑(兜)、甲(鎧)等の全てを革製を、護心鏡は黒漆塗りとして製作した。
 C この作品の冑(兜)は青銅製を、甲(鎧)の小札は鉄製を、腕と膝甲は黒革製をイメージして製作した。
 D 敦煌莫高窟の塑像を基に唐代の明光鎧を再現したものである。
    冑(兜)本体は革製で頸等を保護する部分を折り返している。戦闘時は顔正面を除き覆うような構造になっている。
   胴甲は、塑像をよく見ると小札が絵がかれ、形状から推測すると鉄製のものと思われる。
   膝甲も同様の模様が描かれていることから胴甲と同じく鉄製小札であった事が判る。
   塑像の制作者は、その唐代の甲冑を正確に描き、その上に模様を書き足したようである。

   書き足した部分を除くと唐代の甲冑姿へと戻る訳である。 時代は唐代中期をイメ−ジした。
2011年12月14日

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