黒田二十四騎
軍旗−関ヶ原合戦時 橘藤巴−小寺時代 黒田藤巴−黒田時代 永楽銭−黒田時代 黒餅−黒田時代 軍旗−大阪夏の陣
軍旗No1 橘藤巴 黒田藤巴 永楽銭 黒餅 軍旗No2
黒田官兵衛
2014年のNHK大河ドラマに「黒田官兵衛」が決定、姫路ではにわかに「黒田官兵衛」ブームとなっている。
黒田官兵衛の出生地は姫路城下となっているが、近年、姫路近郊の妻鹿城下ではないかとの新説が有力視されている。
姫路を拠点ししている当工房としては、暇をみつけては黒田二十四騎の制作を継続中となっている。
黒田二十四騎というのは、姫路時代にはなく、九州に入封以降に家臣の中から24人の精鋭を選出したものであり、更に優れた8人を黒田八虎と呼んだ。
黒田八虎
「黒田二十四騎」は、黒田家草創期の精鋭24人を選んだものと伝えられている。
黒田八虎については、「黒田二十四騎」選定時よりも後の時代に選んだものと思われる。
八虎は上位から順に選んでいるが、5番目に位置する久野四兵衛は選考にもれている。
久野四兵衛は文禄の役において戦死したため除かれたものと考える。
そのため黒田八虎の選定は、久野四兵衛戦死時期から後藤又兵衛が黒田家を去った時期の間と言うことが出来る。
八虎は単に上位から生存する8名を選んだに過ぎない。

※※ 豆知識No1 ※※
黒田八虎の一人である母里太兵衛は、福島正則から大盃の酒を飲みほした代わりに日本号の槍を得た。
黒田節にこのエピソードが謡われている。

更に母里(ぼり)は、江戸城普請の際、徳川家康が(ぼり)を(もうり)と誤って書いてしまったため、以降名を毛利と改めた。
非常に興味深い人物である。

黒田八虎にもう一人興味のある人物が後藤又兵衛である。
又兵衛の出生地は、現在の姫路市山田町であり、私の住んでいる船津町の隣に位置する。
何度もその地である山田城跡(現在半分は公園)に訪れているが、当時を忍ばれる物は何も見ることは出来ない。
黒田長政
黒田官兵衛 兜 黒田官兵衛
黒田長政 兜 黒田長政
2013年5月9日 2013年4月29日
1 黒田兵庫助 2 黒田修理亮 3 黒田図書助 4 栗山四郎右衛門
黒田兵庫助 兜 黒田利高
黒田修理亮 兜 黒田利則
黒田直之
栗山利安
黒田職隆の二男(弟) 黒田職隆の三男(弟) 黒田職隆の四男(弟) 出身:姫路近郊栗山
2012年10月29日 2012年10月29日 2012年11月6日 2012年11月12日
5 久野四兵衛 6 井上九郎右衛門 7 母里太兵衛 8 後藤又兵衛
久野四兵衛
井上之房
母里友信
後藤基次
出身:播磨国加東郡久野村 出身:姫路近郊白浜 出身:姫路近郊妻鹿 出身:姫路近郊山田村
2012年11月7日 2013年4月25日 2012年11月12日 2013年4月25日
9 黒田三左衛門 10 野村太郎兵衛(母里の弟) 11 吉田六郎太夫 12 桐山孫兵衛
黒田一成
野村祐勝
吉田長利
桐山丹斎
出身:摂津国伊丹 出身:姫路近郊妻鹿 出身:姫路近郊 出身:近江国坂田郡
2013年4月25日 2013年4月26日 2012年11月12日 2013年4月26日
13 小河伝右衛門 14 管六之助 15 三宅山太夫 16 野口左助
小河伸章
管六之助
三宅家義
野口一成
出身:播磨国美嚢郡 出身:たつの市新宮町越部 出身:姫路近郊三宅 出身:播磨国加古郡野口村
2013年4月30日 2013年4月27日 2013年4月24日 2013年5月1日
17 益田与助 18 竹森新右衛門 19 林太郎右衛門 20 原弥左衛門
益田宗清
竹森次貞
林直利
原 種良
出身:加古川市東神吉町 出身:姫路近郊上大野村 出身:信濃国軽井沢 出身:豊前国
2013年5月2日 2013年5月2日 2013年4月25日 2013年5月3日
21 衣笠久右衛門 22堀平右衛門 23 毛屋主水 24 村田兵助
衣笠景信
堀平正勝
毛屋武久
村田吉次
出身:播磨国明石郡 出身:播磨国明石 出身:近江国神崎郡 出身:姫路市井ノ口
2013年5月3日 2013年5月3日 2013年5月3日 2013年5月3日
※※ 豆知識No2 ※※
黒田職隆の時代では、胴丸・腹巻が主流、下級の者では腹当程度、あるだけましで無防備のまま戦場に行った者も多くいた。
黒田職隆の鎧といわれているものは腹巻(結び目後方)であった。
黒田官兵衛の時代には胴丸・腹巻から当世具足へと変化した時代でもあった。
当世具足は、大量の受注に応じられるように簡素化したものだが、以前の甲冑よりも防御性と機動性に優れていた。
戦いが防具である具足を飛躍的に発達させた。

管六之助は、戦功により黒田官兵衛より朱具足の着用を許される。その他には村田兵助も朱具足を許されていた一人で。黒田家では二名のみであった。

林太郎右衛門は、黒田官兵衛から拝領した甲冑を着用していた。他の家臣の甲冑よりも当然高級品である。
林太郎右衛門に与えた甲冑を官兵衛が着用していたについては判らないが、官兵衛の好みであったのは間違いない。
この当時、この甲冑またはこの甲冑に近いものを官兵衛が着用していたものと想像できる。

母里太兵衛と野口左助は示し合わせて同寸の角を発注し兜を飾ったが、どうも久野四兵衛も同寸の角で飾っていたようである。(根拠なし)

具足は千差万別、個人の好みにより制作を依頼するとともに、既製品をいろいろ組み合わせることもできた。
しかし、個人で具足を持つ者は少なく、多くの者は常備しているお貸し具足(借用品)を着用していた。

余談だが、残されている絵をみると 井上九郎右衛門、後藤又兵衛基次、野村太郎兵衛祐勝は片袖(左側のみ装着)となっている。
描き忘れたのではなく、意図的に右側の袖(肩の防具)を外していたのだろう。
理由として右手には槍や刀を持ち戦うのだが、少し袖が邪魔になる。
普通、馬上で右に構えた槍で左側の敵を刺すため左側の防備は必要であるが、右側は必要ないと判断したのだろう。
また、下馬戦の場合も同じで右袖が少し邪魔になる。
黒田二十四騎の場合でも多くの武者が袖自体装着していないのが見られる。

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