偶然訪問した貴方へのお願い このページは、個人的に古代甲冑を調査・研究するための隠しページです。 まだ、調査内容等を公開できるまで整理できていません。 以上の点をご考慮いただきますようお願いいたします。 |
朝鮮の甲冑(古代編) | |
文化伝達の原則:「古い時代の文化は、辺境地域に残る。」 この場合、唐・隋ではなくそれよりも1・2代前を参考にすべす。(五胡十六国) ※3世紀末から4世紀初頭にかけて、歩兵中心の戦術と軽装騎馬戦術が重装騎馬戦術に変化する。(中国周辺地域) ※4世紀以前の甲冑は、有機物製甲冑(革)の可能性がある。 ※韓国で本格的な甲冑(鉄製)が出現するのは4世紀以降である。(4世紀末から5世紀が主流) ※4世紀中葉には、冑と短甲が画一化されるとともに、下位層へも普及していく。 ※5世紀代の甲冑は、竪矧板短甲・7段構成短甲・挂甲の3つの系統となる。 ※竪矧板短甲は4世紀代から継承しているが、5世紀の墳墓からの出土遼は急激に減少する。(洛東江下流域のみとなる。) ※ |
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高句麗 | |
※鉄製小札冑と挂甲 ※4世紀前半に重装騎馬戦術を採用 ※4世紀前半の古墳には、@竪矧板冑(頬当が小札)・A小札冑及び@布製甲、A革製甲またはB木製甲 ※竪矧板冑には2系統がある。 |
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新羅 | |
※4世紀代の甲冑では、竪矧板冑・竪矧板短甲、小札甲(4世紀の伽那と差異がない。) ※竪矧板短甲は後胴上部がラッパ状が特徴(初期短甲) ※5世紀前半の特徴として金銅製・銀製の装飾性の高い甲冑 ※6世紀以降は中国の唐制甲冑の影響が強く見られる。 |
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百済 | |
※ ※百済独自の甲冑様式と製作技術をもっていた。 ※断片的な骨製小札・鉄製小札・三角板鉄板、短甲の石製模造品、挂甲小札 ※竪矧板冑と挂甲 ※三角板鋲留短甲・頸甲・肩甲 ※横矧板鋲留短甲 ※方形板革綴短甲は中国の影響を受け百済地域で開発されたものと推測する。 これが、洛東江下流地域や日本へ伝えられたもの 清州 百済古墳群(BaekJe-gobunmuri) 新鳳洞地区にある百済時代の古墳群と資料館 公州 古墳(横穴式石室墳が多い) 宋山里古墳群(忠清南道公州市宋山里) 武寧王陵(1971年に発見) 扶余 古墳(横穴式石室墳が多い) 陵山里古墳群(忠清南道扶余郡扶余邑陵山里、百済王室の墓域) 東上塚、東下塚 中上塚、中下塚 西上塚、西下塚 栄山江流域 長鼓山前方後円墳(全羅南道海南郡北日面方山里) 龍頭里前方後円墳(全羅南道海南郡三山面三山里) |
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伽那諸国 | |
※4世紀代は竪矧板冑(高句麗と同様品)彎曲竪矧板冑、竪矧板短甲・小札甲が主流であった。 ※4世紀代の竪矧板冑は頬当が小札ではなく鉄板で製作されていた特徴がある。 ※@竪矧板冑+小札甲= ※A竪矧板冑+竪矧板錨留短甲(主流)= ※B竪矧板革綴短甲(亜流) ※4世紀の小札甲は5世紀の挂甲の小札に比して大型の小札が使用された。頸甲等の付属具がない点である。 ※5世紀中葉の伽那の甲冑は、竪矧板鋲留短甲が残り三角板と長方板の短甲が加わり、挂甲と蒙古鉢形冑が中心となる。 ※5世紀代の甲冑は、@竪矧板錨留短甲(板甲)、A新しい形式の短甲(定型化した甲冑)、B挂甲の3系統 ※竪矧板錨留短甲は新羅と伽那で発達した。 ※5世紀には方形板短甲も使用され、 ※挂甲は首長クラス、板甲は少し下位のクラス、定型化した甲冑(短甲)はより下位のクラスが装着した。 |
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倭 | |
※5世紀前半: 革綴技法の衝角付冑と短甲が主流 短甲は身体の屈伸が不自由なため非騎馬の用途で使用された。 ※5世紀中葉以降、眉庇付冑、挂甲及び馬具等が普及する。 ※眉庇付冑は、短甲と組み合うので歩兵用であろう。 ※古墳時代当時の倭では、長弓・鉄矢を持ち鉄刀で武装した歩兵が主力であった。 重い甲冑をつけ長い槍を鞍上で操作する重装騎兵は日本の気候・風土に合わず衰退していった。 663年(7世紀) 白村江の戦い ※倭人は伽那の甲冑を身にまとっていた。(傭兵?) ※日本で出土している甲冑は、 ×竪矧板革綴短甲(現在まで発見されていない。) @方形板革綴短甲=1件のみ A小型三角板革綴短甲 B三角板革綴短甲 C長方板革綴短甲 D三角板鋲留短甲 E横矧板鋲留短甲 @三角板革綴衝角付冑 A横矧板鋲留衝角付冑 |
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参考図書等 | |
・日本の美術No24「甲冑」 1968年 尾崎元春 著 ・増補「日本上代の武器・甲冑」1981年 末永雅雄 著 ・中国古代甲冑図鑑1998年 劉永華 著 ・季刊考古学76号「古代の武器・武具・馬具」 2001年 ・日本甲冑史「上巻」2008年 中西立太 著 |
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渤海 | |
※ 兵制・装備は高句麗式の唐様式と考える。 『旧唐書』と『新唐書』では渤海のルーツに関する記述が大きく異なり、旧唐書では、 渤海の名は本来、遼東半島と山東半島の内側にあり黄河が注ぎ込む湾状の海域のことである(→「渤海 (海域)」)。 渤海史主要年表 [編集]伽 那:最終的には562年に新羅に併合された。
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契丹(きったん、キタン、キタイとも 英語:
Khitan/Khitai、ピンイン: Qid?n)は満州から中央アジアにかけて存在した遊牧民族。 |
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「カセン」:対日本軍に使用(ロケット)、「センクウ砲」:カタパルト式投擲機=隋・唐代時使用された。 |
先史時代 | ||||||||
檀君朝鮮 箕子朝鮮 衛氏朝鮮 |
辰国 | 古朝鮮 | ||||||
高句麗 | 扶余 | 沃沮 | ? | 三韓 | 原三国 | |||
高句麗 | 伽耶 | 新羅 | 百済 | 三国 | ||||
渤海 | 統一新羅 | 南北国 | ||||||
渤海 | 後高句麗 | 新羅 | 後百済 | 後三国 | ||||
高麗 | ||||||||
李氏朝鮮 大韓帝国 |
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日本統治時代 | ||||||||
連合軍軍政期 | ||||||||
朝鮮民主主義人民共和国 | 大韓民 |
戦 争 | 白村江の戦い |
年月日 | 663年8月27日〜28日(2日間) |
場 所 | 白村江(現:錦江付近) |
結 果 | 唐・新羅連合軍の勝利 |
交戦勢力 | |
唐 新羅 |
倭国 百済遺民勢力 |
指揮官 | |
金法敏(文武王) 劉仁軌 |
阿部比羅夫 扶余豊璋 |
戦 力 | |
唐軍 7,000人 唐船舶 170余隻 新羅軍 5,000人 |
倭国軍 42,000人 倭国船舶 800余隻 百済軍 5,000人 |
損 害 | |
不明(倭国・百済連合軍の被害よりは小規模) | 船舶 400隻、兵 10,000人、馬 1,000頭 |
戦いの経過 660年 百済の滅亡 朝鮮半島では、半島北方と大陸方面を領土とした高句麗、半島南東部の新羅、南西部の百済の三国がしのぎ をけずっていたが、中国が五胡十六国の分裂の時代が終わり、隋による統一国家が成立すると、 朝鮮半島への出兵を行うようになった。 隋は高句麗に対する3度の遠征に失敗し4度目の出兵を計画するが、中国国内に内乱が起こって自滅した。 次の唐も高句麗へ3度の出兵を行うが成功せず、新羅と結んで先に百済を滅亡させる作戦に出た。 660年、唐は水陸13万人の大軍を動員して山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で出陣した。 新羅軍は黄山之原(現在の忠清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)の 伎伐浦(ぎばつぽ)で百済軍を破り、百済の王都の泗?城(しひじょう・錦江下流域)を攻めた。 百済王はいったんは旧都の熊津城(錦江中流域)にのがれたが、皇太子らとともに降伏し、660年、百済は滅亡した。 斉明天皇6年(660年) 百済の滅亡後、鬼室福信と余自進がそれぞれに、散らばった百済兵を集めて城を守った。鬼室福信は、 唐人の捕虜百余人を日本へ送り、日本の援軍を乞うとともに、日本へ送られていた王子の余豊璋を迎えて 国王としたいと伝えてきた。 斉明天皇7年(661年) 斉明天皇は、百済へ援軍を派遣するため筑紫(現在の福岡県)に移られたが、ここで亡くなった。 のちの天智天皇が後を継ぎ、即位しないまま筑紫で政務をとり、百済への援軍と武器・食料を送らせた。 その後、百済の王子豊璋に冠を授け、妻をめとらせたうえ、5千人の兵を添えて百済へ送った。 百済では、鬼室福信が迎えて、豊璋に政務を任された。 天智元年(662年) 高句麗は、唐と新羅の連合軍に攻められて、日本に援軍を求めた。 日本は兵を送って疏留城(そるさし・都々岐留山(つつきるのむれ))に構えたので、唐は南進できず、新羅は西進をはばまれた。 日本が勅して豊璋を百済国王とし、また、福信の労をねぎらった。 この年は、百済を救うために、武器を整え、船を準備し、兵糧を蓄えた。 天智2年(663年) 日本から2万7千人を派遣した。百済王の豊璋は、福信に謀反の心があるのを疑って、福信を斬り殺させた。 良将であった福信が斬られたことを知った新羅は、百済王のいる州柔(つぬ)を取ろうとした。 この計画を知った百済王は、自分は日本の援軍を白村江(錦江の河口付近)で迎えてくると諸将に告げて城を出た。 その後に、新羅が城を囲んだ。また、唐の軍船170艘が白村江に陣をしき、日本の先着した水軍はこれに敗れた。 翌日、日本軍と百済王は、隊伍の乱れた中軍を率いて作戦もなく先陣を争って戦い、唐軍に左右から船をはさんで 攻撃され、大敗を喫した。 百済王は数人と船に乗り、高句麗へ逃れた。 その後、州柔城も降伏した。 日本軍と余自進を含めた多くの百済の人々が、日本へ引き上げた。 この年、対馬・壱岐・筑紫国などに防人(さきもり)と烽(すすみ・のろし台)を置き、筑紫に大堤を築いて水を貯えた。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道?(どうちん)・日本へおくられていた王子豊璋などが、高句麗や 日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。日本からは3万7千人余りの軍を送り、 663年に、錦江河口で2日間にわたって唐・新羅の連合軍と戦ったが大敗した。古名をとって、「白村江 (はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。 なお、多くの百済人が日本へ亡命した。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 白村江の戦がもたらしたものは「倭国の滅亡」だけではありませんでした。 筑紫君薩夜麻らの帰国は、唐人2000人の「進駐」(日本書紀に記述)を日本側に告知する為になされた措置だったのです。 つまり、先の大戦終結後、米軍が「進駐」してきたのと同様に、唐人が進駐してきたのです。 更に、様々な資料から、唐人だけでなく、もう一方の戦勝国・新羅人も、亡国の民・百済人も、日本に流れ込んできました。 日本側の史料では、彼らを日本に「帰化」したと書いていますが、実際は、日本に「進駐」したと言う方が正しいでしょう。 その証拠に、その後の「親唐路線」や、朝廷内に於ける「帰化」系氏族の増加 (彼らの多くが先の敗戦まで「貴族」としての特権を有していた)と言った事実が挙げられます。????? −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 660年7月、百済の義慈王は唐と新羅の連合軍に降伏し、76万世帯の農民や200以上の城を連合軍に差し出しました。 百済700年間の歴史に終止符が打たれた瞬間でした。 百済の義慈王と皇太子が捕虜になり唐に連れ去られた後の百済に残された民はどうなったのでしょうか。 国立扶余博物館には、百済王室の象徴である金と銅で作られた大香炉が保管されています。 高さ62cm重さ11.8kgにもなる大型の香炉です。 その香炉には博士や武士など17人の人物像から鳳凰、龍、虎などの42匹の動物も刻まれています。 しかも、植物や岩、山道 滝や湖などの自然の景色も華麗に描かれています。 姿全体は満開の蓮の花の形でその蓮の花を一匹の龍が支えているような形になっています。 東アジア最大の傑作品ともいえるこの金の大香炉は1993年に扶余で発見されました。 それがなんと王陵から発掘されたのではなく、使わない井戸の底の泥の中から出てきたのでした。 薄い板で隠されているような状態で発見されました。 それは誰かが急いで隠したものと思われます。 国立扶余博物館ソ・オソン館長の話です。「百済の金の大香炉は王室の最高の宝物だったと考えられます、 このような宝物が井戸の底の泥の中から発見されました。 それは安全な保管場所を探す余裕がぜんぜんなかった百済の最後の滅亡当時の急な状況を物語っているといえるでしょう。 百済の滅亡は誰にも予想できないほど、急に訪れました。 わずか15日間の戦争を経てあっという間に滅びてしまったのでした。」 唐に連れ去られた義慈王は1ヶ月もたたないうちにその一生を終えました。 百済の降伏の後、すぐに百済復興運動が始まります。 地方から起きた復興運動は、次第に勢いを増して熊津、今の公州を占領し、都であるサビ城、 つまり扶余にまで進出するようになりました。 地方の城は復興軍に占領されていて、残った兵士や農民らも復興運動を支援しました。 661年、復興軍は統一組織を作ります。義慈王の従兄弟に当たる福信は、僧侶であるトチムと共に復興運動をリードします。 トチムと福信は共に唐の軍隊と戦って、今州、扶余を除く地方のほとんどの地域を回復し百済の復興運動をリードしました。 日本書紀によると福信は失った国を回復した百済復興運動の英雄と評価されています。 福信は日本の大和政権に使いを出して、当時大和に滞在していた義慈王の息子である扶余豊フヨプンの帰国を願い出ます。 扶余豊は日本では扶余豊璋、または百済君ともいわれていました。 大和の王室で政策について意見を述べる役割をしていたと考えられます。 百済から日本へ渡った人々は本や仏教などの先進文物を持って行きます。 一方日本からは百済へ軍事援助がなされました。 日本からの軍事支援を受けて百済に帰ってきた扶余豊は、福信やトチムら復興軍によって新しい王に推挙されました。 しかしその頃、百済の復興運動には暗い影がかかり始めました。 福信は自分の命令を聞かないトリムを処刑し、扶余豊さえ消そうとしたので、 これを知った扶余豊が先に福信を殺してしまったのでした。 こうした内紛に気づいた新羅と唐の連合軍は百済復興軍に全面的な攻撃を加えます。 しかし百済復興軍も退く意志はありませんでした。 大和の支援軍が海を渡って百江(ヒャッコ)、今の錦江(クンガン)の入り口に到着したのでした。 3万にもなる大規模な支援軍でした。 日本がそれほどの支援軍を送ったのは理由があったからです。 百済が降伏したことで大和の朝廷はかなり緊張します。 なぜならば百済の没落は、その次の唐の攻撃の矛先が日本列島に向ってくるかもしれないという危機感をあおったからです。 錦江の入り口で大和と百済の連合軍と、新羅と唐の連合軍との間で激しい戦争が行われました。 有名な白村江(ハクスキノエ)の戦いです。 しかし大和と百済の連合軍は出兵してから15日で、ほとんど全滅してしまいました。 当時のことを「三国史記」には次のように記しています。 “4回戦ってすべて勝ち、船400隻を燃やした。炎と煙が天を覆って、海が赤い色に変わった” 戦争に惨敗した扶余豊は高句麗に亡命します。リーダーをなくした復興軍は力を失って負けてしまいました。 3年間にわたる百済の復興運動は失敗しました。それは何よりもリーダーたちの内紛にその最大の原因がありました。 それは百済の滅亡の原因と同じです。 百済の復興運動の失敗によって百済の指導層の多くが海を渡って日本へ移りました。 大阪の難波宮事務所の関山副所長です。「日本書紀に664年白村江ハクスキノエで敗れた百済の王族を難波に住 ませたという記録が出てきます。亡命してきた百済の王族がこの場所に住んでいたということをはっきりと示したものです。」 今も関西には百済という名のつく寺や、神社、名字などが残っています。 多分渡来した百済の王族らが日本で名乗った名字だったのでしょう。大和朝廷は彼らを優遇しました。 その時、海を渡った百済の指導者らは、日本にいろいろな科学技術、寺や山城の建築方法などの文化と知識を伝えました。 百済からの渡来人たちが日本の律令国家を形成する過程で大きな役割を果たしました。百済からの人と 先進技術の伝播は全般的に日本の文化水準を高めたでしょう。 百済文化の真髄は韓国の扶余や公州ではなくむしろ日本に残っているという話は以上のような渡来系が伝えた 文化のあとが日本に残っているからでしょう。 百済の人々は国の滅亡と共に亡くなったのではなく、希望を持って海を渡り日本で百済の文化の華を咲かせて 日本文化に大きな影響を与えたのでした。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 全滅=損耗3割 壊滅=損耗5割 殲滅=損耗10割=玉砕 全滅とは、部隊が組織的な戦闘能力を失ったと判断される損害。 この時点で部隊を後方に下げて再編成しなければならない。 ところが、5割もの損害を受けてしまうと、再編成どころか基幹要員がいないので、部隊の編成を保てず、組織として崩壊した状態とみなされる。 つまり壊滅。 朝鮮の伝説 @新羅の人が日本の王となった。A出雲の人が朝鮮の王となった。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 660年に唐・新羅連合軍の攻撃によって百済が攻め滅ぼされたのち、百済の遺臣は、 鬼部福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、 倭国に滞在していた百済王の太子豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請した。 これは戦後、一時的にせよ倭国が百済への影響力を増大させることを意味していたが、 百済再興の為には古くからの同盟国である倭国の助けが不可欠だった。 倭国を率いていた中大兄皇子はこれを承諾、661年に斉明天皇は難波から九州へ出兵するも、邦の津にて
倭国軍の戦闘構想は、先ず豊璋王を帰国させて百済復興軍の強化を図り、新羅軍を撃破した後、 663年、豊璋王は福信と対立しこれを斬る事件を起こしたものの、倭国の援軍を得た百済復興軍は、 百済の再起に対して唐は増援の劉仁軌率いる水軍7000名を派遣した。唐・新羅連合軍は、 倭国・百済連合軍は福信事件の影響により白村江への到着が10日遅れ、唐・新羅連合軍のいる 白村江の戦いで大敗北した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済遺民を救い出して船に乗せ、 当時の唐は至るところで諸民族を征服しており、丁度このころの唐の勢力圏は中華史上最大のものであった。 |
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