このページは、古代甲冑を調査・研究するためページです。
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以上の点をご考慮いただきご覧くださいますようお願いいたします。 

綿襖甲
綿襖冑 五色軍団
 インターネッットで「綿襖冑」を検索すると「上画像左から2番目の赤」が結果として表れた。
 その資料を参考にし五色の軍団を制作した。
 『続日本紀考証巻八』淳仁の条には「綿襖冑」の記載があり、天平宝亀6年(775年)に京庫の綿1万屯と甲斐と相模の綿5千屯をもって
陸奥国で「襖」を作ったこと、同11年(780年)7月に征東使が4,000領の「襖」を請うたことなどが記されている。
 綿襖冑−綿甲冑−綿甲は同じもので防寒と矢石の防御に優れているので兵士が多様したとしている。
 一方、『続日本紀』宝亀11年(780年)8月には革製甲が軽便で矢が貫き難く、その製作工程も容易であった。
 以後諸国で作らせる甲冑は全て革を使いなさいという太政官符が出された。
 延暦9年(790年)には征夷のため3年を限って駿河以東、東山信濃以東に革甲2,000領を作らせている。(インターネットから入手)

 通常1000人単位で軍団を編成し、その軍団を各地に配置する制度である。
 軍団は、識別色として黄・赤・白・青・黒の5色を使用していた。
李朝朝鮮時代の綿甲冑(綿襖甲)  
 李朝朝鮮時代に使われていたの綿甲冑(綿襖甲)である。
 綿甲冑は、中国を中心とし東アジア一帯で最も広く使われた甲冑の形式
 この様式は表・裏布地の間に綿などを挟み込んだもので防護機能と防寒機能を合わせ
持ったものであった。
 主に下級兵士の甲冑として使用されていたため古代の遺物は存在していない。
 長期にわたり使用し続けられたようで李朝朝鮮終演、鉄砲の時代まで使用された。
 奈良時代の綿甲冑は唐で使用されていた甲冑を模倣したとある。
 コート状ではなく現代の防弾チョッキのような形状であったと私は考えている。
 理由として、コート状の甲冑は後の甲冑に影響を及ぼしていない点、記録では6000領の
綿甲冑を短期間に作製している。蝦夷地だけに限定した数にしても多すぎる。
 全国の軍団に配布するのであれば防弾チョッキ型甲冑でよい。コート状の甲冑を比較的
温暖な気候の地域で使用したとは到底思えない。
 また、防弾チョッキ型甲冑が後の胴丸式甲冑へと続いたと思われるからである。
 私感
 3DCG化するために古代甲冑を調査・研究しているが、この綿襖冑(復元)にはいささか疑問を呈している。
 時代は奈良時代、唐風甲冑とでも言うのだろうが、隋・唐代にはこのような甲冑の存在は確認できない。(下級兵士用=消耗品)
 時代が下がって元代や清代の甲冑を彷彿させる。
 遣唐使が持ち帰った物が全てが中国とは限らない。朝鮮半島の物とも充分に考えられる。
 
李朝朝鮮時代の綿甲冑(綿襖甲)
2010年7月9日 追加


甲 類
古墳時代 飛鳥.奈良時代
300〜399 400〜499 500〜599 600〜699 700〜799
4世紀 5世紀 6世紀 7世紀 8世紀
前期 中期 後期 前期 中期 後期 前期 中期 後期 前期 中期 後期 前期 中期 後期
木製短甲
方形板革綴短甲
竪矧板革綴短甲
長方板革綴短甲
三角板革綴短甲
横矧板革綴短甲
三角板鋲留短甲
横矧板鋲留短甲
挂 甲
小札革留短甲
両当式挂甲
綿襖甲

凡例: ○使用、●改良型(余命延長型)、−未使用、・不明
この表は古墳等からの出土状況を参考に作製したものです。
(2010.1.23)
胴甲(木製)
木製編上甲 丸太刳貫甲 方形板組合甲
3世紀(弥生時代後期) 3世紀(弥生時代後期) 3世紀(弥生時代後期)
(古墳時代)
※静岡県浜松市伊庭遺跡 ※奈良県橿原市坪井遺跡
柳材使用 丸太の湾曲部を残して刳り貫いた。 背側板と胸側板を紐で綴じ合わせる。
※木製編上甲には、柳材以外にも竹材を組み合わせた甲の可能性あり。実戦用
※方形板組合甲方形板を合わせて漆を塗った背側と胸(胴部)側を別個につくり、紐で綴じ合わせる型式

 表面には同心円文や渦巻文、平行線文、羽状文、三角文などの文様が凸状に明瞭に刻まれている。
 さらに、それらの文様は赤色顔料や黒漆で塗り分けられている。
 材質が木製であることや呪術的な文様などから実戦用ではなく祭具用と考えられている。

短 甲
@方形板革綴短甲(T) A竪矧(たつはぎ)板革綴短甲(T) B竪矧板革綴短甲(U)
4世紀後期頃
(4世紀末〜5世紀初)
4世紀後期頃
(3世紀後半〜4世紀末)
4世紀後期頃
(3世紀後半〜4世紀末)
※奈良県外山茶臼山
※大阪府紫金山古墳
※滋賀県瓢箪山古墳 (内張付)

※福岡県若八幡宮(わかはちまんぐう)古墳
※京都府園部垣内古墳
※奈良県箸墓
※山梨県大丸山古墳
※京都府椿井大塚山
※岡山県都月坂1号

※岡山県奥の前1号墳
(国内の出土品は3例のみ?)
※大阪紫金山古墳?
2009年10月3日 2009年8月14日 2008年8月12日
C長方板革綴短甲 D横矧板革綴短甲 E三角板革綴短甲
4世紀後期〜5世紀中期頃 5世紀後期頃
(5世紀中頃〜6世紀初)
4世紀後期〜5世紀後期頃
※ 山口市天神山(長楽寺山)1号墳
※小野市王塚古墳(5世紀)
※長野県桜ヶ丘古墳出土品
※福岡県鋤崎(すきざき)古墳
※大阪府岸和田市風吹山古墳(5世紀初)
※東京都野毛大塚古墳(5世紀前半)
※岐阜県長良龍門寺古墳
※京都府椿井大塚山古墳
※大阪府紫金山古墳

※八鹿町沖田11号墳(5世紀中頃)
※滋賀大塚越古墳
※兵庫県三木市年ノ神6号墳(5世紀中頃)
※和田山町茶スリ山古墳(5世紀前半)
※綾部市私市円山古墳(5世紀中頃)
※大阪府堂山1号墳(5世紀)
※大阪府和泉市黄金塚古墳(4世紀末)

※横浜市朝光寺原1号墳出土
2010年1月14日 2010年1月11日 2010年1月10日
F三角板・横矧板併用鋲留短甲 G横矧板鋲留短甲 H三角板鋲留短甲(T)
5世紀中期〜6世紀前期 5世紀後期〜6世紀後期 5世紀中期〜6世紀後期頃
※千葉県八重原6号墳
大阪西小山古墳(5世紀中期)
加西市亀山古墳5世紀後半
※千葉県東間部多1号墳
※香川県川上古墳
※姫路市香寺町法花堂2号墳(5世紀後半)
日高町小山1号墳(5世紀後半) 
2010年1月10日 2010年1月11日
I小札革綴短甲 J方形板革綴短甲(U) K三角板鋲留短甲(U)
6世紀後期頃 ※4世紀中期〜5世紀初期
(4世紀前後)

(4世紀後期〜5世紀初期)
※奈良県別所城山2号墳
※滋賀県雪野山古墳
※石川県雨の宮1号墳
※大阪府楯塚古墳
全国で17例目の発見
2009年8月24日 2010年1月12日
高38×幅40cm
小札1列18〜19枚・11段
L三角板並行四辺形板併用革綴短甲

(5世紀後期)
※大阪府七観古墳(消滅)
A 三角板革綴襟付短甲 B 三角板鋲留短甲(V) C 横矧板鋲留短甲(U)

(5世紀初〜中旬)
8世紀頃
(奈良時代後期〜平安時代初期)
※摂津豊中大塚古墳出土品
※河内野中古墳出土(5世紀)
※交野東車塚古墳
の3例のみ
2010年1月13日 2010年1月30日
C長方板革綴短甲
  鉄製の短甲
として朝鮮半島で最初に作られた甲で舶来品、後に三角板及び横矧板式短甲へと変化する。
  なお、横矧板革綴短甲は、長方板革綴短甲に横板1枚を補強し構造強化を図ったものと理解している。
F三角板・横矧板併用鋲留短甲

 後胴に三角板を使用し、前胴に横矧板、一部に三角板を併用した三角板・横矧板併用鋲留形式(廃品利用?)

一行資料
※6世紀後期の甲冑生産は横矧板鋲留短甲が主流になっていた。
※8世紀の一時期には唐様式の甲冑(両当鎧・綿襖甲:量産可能、全兵士への支給)が甲冑生産の主流を占める。
「帯金式」と呼ばれる短甲は、細長い鉄板でまず短甲の骨組みをこしらえた後、内側から地板という長方形・三角形の鉄板を貼る。
地居たの固定には始め革綴、後に鋲留の技法を用いている。
帯金式の短甲は東北から九州まで400領以上出土している。
※短甲の鋲留化:鋲留技法の導入により短甲の構造強化及び製作の省力化を図った。(大量生産)
※列島産の短甲は、竪矧板よりも小さな鉄板を上下左右につなぐ方形板革綴短甲の段階を経て、古墳時代中期には長方板革綴短甲が出現する。
 横方向に細長い帯金によって地板を固定し、肩の位置を守る最上段には、独特の曲線をもつ押付板(おしつけいた)が採用された。
 この段階をもって中期型甲冑の成立とし、地板の形状も長方板から三角板・横矧板へと変化した。
 また、鉄板同士の緊縛技法が革綴じから鋲留め方式に変化する。
 この新技法の採用は、規格性と堅固性を増し、生産の多量化をもたらした。

※古墳時代には鉄製短甲が出現し、横矧板鋲留が安定した形式として普及する。
  6世紀には出土遺物としては見られなくなり、桂甲(けいこう)に代わられている。
 三角板革綴襟付短甲
 三角形の鉄板を革で綴じて組み立てた短甲
 U字形鉄板を用いて襟を付けるなど、かなり複雑な構造をした珍しい短甲である。
 内部に小札鋲留眉庇付冑を収納し、上に鉄製草摺を載せた状態で出土した。
 革小札:牛の撓(いた)め革(がわ)で作った、鎧(よろい)の小札。
 唐小札:鎧(よろい)の小札で、1枚ごとに上へ打ち出し、漆の盛り上げに見せかけたもの。
 副葬品として出土する甲には2形式があり、「短甲」の呼称は奈良時代の文献である『東大寺献物帳』(756年)や
『延喜式』などの文献において「短甲」と「挂甲」の記述や見られる。
文献においては「短甲一領」が胴部のみのものを意味し、「短甲一具」が草摺や冑、肩甲、頸甲、篭手、脛当等の装備一式を意味すると
考えられているが、一具の出土例は見られない。

 現存するのは主に鉄製や金銅製のものであるが、有機質材料が併用されていた可能性が指摘されている。
弥生時代終末期の遺跡から木製や革製、植物繊維を編んで漆を塗ったもの等さまざまな有機質材料の短甲も出土している。

※短甲:古墳時代から奈良時代にかけて使われた鎧
 日本の古墳時代初期に現れる小札革綴冑は中国系譜の舶載品
 前期中葉以降(4世紀後半)に現れる竪矧板革綴短甲と方形板革綴短甲は韓半島南部の縦長板釘結板甲の影響
を受けて、日本内で作られたものと考え、古墳時代の中期中葉(5世紀後半)に現れる鋲留技法の板甲、
 札甲[掛甲]、眉庇付冑などは韓半島の工人が日本列島に渡り、新しい体制によって生産し始めたものだ
と説いた153。ただ、上述の小札革綴冑はごく少数の最高位層の威勢品であったにすぎず、竪矧板および
方形板革綴短甲は加耶の板甲をそのまま具現できず、全体の構造や製作技法に相当の差異があった。
 すなわち、日本列島の4世紀の甲冑文化は未熟なものだった。???
※「短甲一具」が草摺や冑、肩甲、頸甲、篭手、脛当などの装備一式を意味する。
※静岡五ケ山B2号墳: 三角板革綴衝角付冑・短甲・頸甲・肩甲
※5世紀中頃に革綴から鋲留に変化する。
※短甲:胴推定高43p前後、前胴推定高30数pで、
 前胴、後胴とも堅上3段、長胴4段からなる7段構成
※横矧板形式の短甲は5世紀後半に大量生産され、
国内の軍事力増強をめざした中央政権が、地方の権力者に配布したもの。
※横矧板鋲留短甲:前胴は6段、後胴は7段の横長鉄板で構成されている。
  後胴部の押付板上部周縁は、鉄板の折り返しによって縁金が付けられている。
  開閉部の右胴前の両端には、引合板が縦位置に留められている。
※竪矧板革綴短甲の出土ば国内で3例目あり、その類例は朝鮮半島に求められる。
※武具としての甲冑の誕生は、中国大陸・韓半島に起源するが、大陸においては初期的に小札(こざね)で構成する甲冑から出発する。

 それに対して、半島南部と列島弧においては、大型の地板で構成する甲冑を生み出した点で、その系譜の独自性と発展性は軽視できない。
 そして、その技術的な発展は列島弧内では鉄加工の熟達を伴いながら、
 方板革綴短甲・三角板革綴短甲に始まり、5世紀前半の鋲留(びょうどめ)技術の導入により三角板鋲留短甲を成立させ、
 それは次の段階として多鋲式から少鋲式へといった鋲留技法の進展も併せて、5世紀後半には量産を横矧板鋲留短甲
と いう形で実現させた。

※多くは量産が可能となった鋲留技法以降の甲冑によって占められている。
※6世紀代に入ると挂甲が、鋲留式甲冑に入れ替わるように主体を占めるようになる。
※京都府椿井大塚山古墳や大阪府紫金山古墳出土の 竪矧(たつはぎ)板革綴式短甲などが最古例である。
私感
※短甲の横矧板式は官給品(規格統一・各種サイズ有り)、三角板式は私物品(オーダーメイド)であったと考える。
  理由として横矧板式と三角板式は同時代に製造されたいたことを念頭に置き、 
・三角板式のほうが製造工程が多いこと。
・三角板式ほうがバリエイションに富んだ種類がある。(定型化されていない。)
・三角板式には金貼があるが、横矧式には無い。
・古墳出土例は三角板式が圧倒的に多い。

・当然のことながら三角板式(私物)のほうが内装(内張・緩衝材等)に優れ、体にフィットした。たぶん製造所も異なっていたのだろう。
 都に出向いたついでに注文したのではないだろうか?
私感
 一定の防御能力を備え、大量生産する必要が有る場合には短甲型の胴甲を製造した。
 例として戦国時代の具足である。5世紀の甲冑形式(短甲)が突然13世紀頃に出現した。
 短甲は甲冑としての完成域に達していたものと推測できる。
 甲冑師は、代々短甲の製造工程と現物を保管していたものと考える。


挂 甲
日本で桂甲が多く見られ始めるのは実質6世紀以降
@鉄小札革綴胴丸式挂甲 A小札縅甲(中国) Bアイヌ革挂甲 C挂甲
5世紀 不明 6世紀頃
岡山県天狗山古墳
奈良県明日香
2010年1月8日 2009年9月14日 2009年12月10日
D小札緋縅胴丸式挂甲 E両当系札甲 F両当系札甲
8世紀頃
(奈良後期〜平安初期)
(9世紀前後) (9世紀前後)
2010年1月28日 2010年11月25日 2010年11月25日
一行資料
※中国北方の遊牧民の騎兵用の鎧の影響を色濃く受けた挂甲
※大阪長持山古墳  : 横矧板鋲留衝角付冑・小札錣・襟甲・小札胸当・挂甲


冑 類
古墳時代 飛鳥.奈良時代
300〜399 400〜499 500〜599 600〜699 700〜799
4世紀 5世紀 6世紀 7世紀 8世紀
前期 中期 後期 前期 中期 後期 前期 中期 後期 前期 中期 後期 前期 中期 後期
小札革綴冑
小札革綴衝角付冑
小札鋲留衝角付冑
小札鋲留眉庇付冑
小札鋲留眉庇付冑(金銅製前立付)
三角板革綴衝角付冑
三角板鋲留衝角付冑
三角板鋲留変形衝角付冑
横矧板鋲留衝角付冑
竪矧板革綴衝角付冑
竪矧細板鋲留衝角付冑
竪矧細板鋲留眉庇付冑
竪矧細板鋲留眉庇付冑(四方白地鉄地金銅装)
竪矧細板鋲留眉庇付冑(金銅装)
鉄地金銅装鋲留眉庇付冑
蒙古鉢形小札鋲留眉庇付冑(四方白地鉄地金銅装)

この表は古墳等からの出土状況を参考に作製したものです。
(2010.1.23)

衝角付冑
@竪矧板革綴衝角付 A三角板革綴衝角付 B竪矧細板鋲留衝角付 C横矧板鋲留衝角付 D小札鋲留衝角付冑
5世紀中期〜6世紀初期 5世紀前期〜後期頃 5世紀中期〜後期頃 5世紀後期〜6世紀前期頃 4世紀後期〜6世紀前期頃
※福井県天神山7号墳
※京都府ニゴレ古墳
※長野県桜ヶ丘古墳出土品 ※大阪府七観古墳
※奈良県円照寺墓山一号墳
※岩手県上田蝦夷森第1号墳
※長野県溝口の塚古墳
※大阪府寛弘寺古墳
※大阪府黒姫山古墳

※福岡県稲童8号墳
※香川県川上古墳

姫路市法花堂2号墳出土品
※京都府雲部車塚古墳
2009年8月25日 2009年9月7日 2009年8月27日
E竪矧板鋲留衝角付 F三角板鋲留衝角付冑 G小札革綴衝角付冑 H長方板革綴衝角付冑 I小札鋲留衝角付
7世紀初期 5世紀後期〜6世紀初期 5世紀中期〜6世紀初期 5世紀初期〜中期
(5世紀中〜6世紀初)
※埼玉県大宮古墳
※埼玉県真観寺古墳
※大阪府鞍塚古墳 ※京都府ニゴレ古墳 ※小野市小野王塚古墳
※大阪府長良龍門寺古墳
※大阪府河内野中古墳
※鹿児島県祓川地下式横穴墓
※京都府岸ヶ前2号墳
※福岡県堤当寺古墳
※群馬県鶴山古墳
2009年9月2日 2010年1月13日 2009年8月25日
J竪矧広板鋲留式冑
(竪矧広板鋲留衝角付冑)
K竪矧板鋲留衝角付冑(U) L横矧板鋲留衝角付冑 M三角板鋲留変形衝角付冑
(三角板鋲留異形衝角付冑)
N横矧板鋲留衝角付冑(U)
6世紀後期〜7世紀初期 6世紀後期 6世紀初期〜中期 6世紀初期〜中期 6世紀初期
※千葉県木更津市金鈴塚古墳
※福島県金冠塚古墳
※群馬県諏訪神社古墳
(5世紀から6世紀前半?)
※黒姫山古墳
※大阪府北天平塚古墳
※京都府宇治二子山古墳
※京都府雲部車塚古墳
※兵庫県立考古博物館
(復元)
※群馬県金井東裏遺跡
2010年1月25日 2008年1月9日 2014年1月26日
※J竪矧広板鋲留式冑
 冑を構成品は縦長台形状の鉄板6枚、正面の断面三角形状の長方形鉄板1枚、頭頂部の楕円形鉄板1枚、それと額を覆う小さな庇が1点、帯金が広く、鋲が大きい。

※K竪矧板鋲留衝角付冑(U)
 J竪矧広板鋲留式冑と同様式の冑と見られる。Jが革綴Kが鋲留とも思える。
N横矧板鋲留衝角付冑(U) 

眉庇付冑
@金銅装竪矧細板
鋲留眉庇角付冑
A小札鋲留眉庇角付冑 B横矧板鋲留眉庇角付冑 C錣付【しころつき】の眉庇付胄 D長方形小札鋲留眉庇付冑
5世紀後期頃 5世紀後期〜6世紀前期頃 5世紀中期〜6世紀初期 5世紀後期 5世紀中期〜6世紀初期
※滋賀県円山古墳 ※横浜市朝光寺原1号墳出土
※佐賀県夏崎古墳
※滋賀県新開第1号墳
※福岡県永浦4号墳
※福岡県稲童21号墳
※大阪府黒姫山古墳
※滋賀県近江新開古墳出土品
(5世紀前期)
※大阪府黒姫山古墳
2009年12月23日 2010年1月15日
E竪矧細板鋲留眉庇付冑 F金銅製前立付小札鋲留眉庇付冑 G H 鉄地金銅装眉庇付冑
5世紀中期〜6世紀初期 5世紀後期 5世紀後期〜6世紀初期
※千葉県祇園大塚山古墳
※奈良県円照寺墓山一号墳
※佐賀県円山古墳 ※福井県敦賀市向出山1号墳
2009年8月15日 2010年6月2日

その他(蒙古鉢冑・小札冑)
@小札革綴冑 A蒙古鉢形眉庇付胄T) B蒙古鉢形眉庇付胄(U) C蒙古鉢形冑(T) D蒙古鉢形冑(U)
4世紀前中期頃
古墳時代前期(3世紀後半から4世紀初頭)
前漢代〜西晋代の中国様式
(中国製)

木製・革製短甲が随伴する。
不明 5世紀
※滋賀県雪野山古墳出土
※奈良県天理市黒塚古墳
※滋賀県八日市雪野山古墳
※京都府椿井大塚山古墳
※京都府妙見山古墳
※大阪府玉手山6号墳
等14の古墳から出土
※和歌山県椒古墳 ※奈良県五条猫塚古墳
(高句麗使用)
2009年9月22日 2010年1月11日 2010年1月8日 2009年10月3日 2009年9月28日
E桃実形冑?
(桃形式)
F竪矧板鋲留冑
(異形冑)
G蒙古鉢形眉庇付胄(V) H蒙古鉢形眉庇付胄(V) I木製冑(木鉢)
6世紀後半 7世紀後期
※群馬県綿貫観音山古墳
1例のみ
岩手県矢巾町歴史民俗資料館
2010年1月9日 2010年1月11日 2010年1月11日
E桃実形冑
後藤守一氏は衝角という名に異論を唱え、縁が桃の実の形に似ていることから「桃形式」と命名した。(例:三角板鋲留衝角付冑→三角板鋲留桃形式冑)
F異形冑
全高29.3cm、12枚の弁尖矧板で頭周を巻くように鋲留めし、頭形の鉢部を作り、額部分は弧状に切り込みがある。
鉢部頂に剣尖形突起が飾られている。
現在まで日本の古墳等からの出土例はない。(北魏・隋・唐時代の俑に類似する冑)
D蒙古鉢形冑(V)
この冑は3個の金銅装眉庇付冑の中の1個で、上端が細く、中央から下部にかけて拡るのが特徴で、蒙古鉢形冑とよばれる。
その構造は頂部には金銅の受鉢があり、管を欠失するが、半球状の金銅製伏鉢に続き、さらに地板第一、金銅製胴卷、地板第二を経て、金銅製腰卷に至る。
地板第一と第二は、前後面と左右面に各3〜4枚の金銅小札を置き、その間に鉄製の小札を各々3枚配し、鋲留する。
金銅の地板の四方向に銀色の鉄板を配することから、一般に四方白(しほうじろ)とよばれる形式である。
庇部も金銅製で、外縁は11個の弧形を連ね、内側に絡龍文をM字形に透彫し、点刻で表した細線文や波状文で飾る。  
いわゆる蒙古鉢形冑は、古墳時代の日本では類例が非常に少なく、その形式は中国大陸や韓半島の遺物に共通している。

一行資料
○羽飾り:雉の羽等
○三尾金具(さんびかなぐ):青銅製、3本の尾の先に色彩豊かで長く綺麗な羽を装着し、装飾の少ない衝角付冑の頂部に載せて飾りとしたもの。
  形・文様とも盾を模倣したもので、盾の持つ呪力を期待して冑に装着した。
○日本の古墳からは甲の一部である草摺や綿噛(わたがみ)が出土しない。 考えられることは、革などの有機物で造られていたためと考える。
  一部の甲には鉄小札で組まれた草摺が出土している。
○革小札:牛の撓(いた)め革(がわ)で作った、鎧(よろい)の小札。
○唐小札:鎧(よろい)の小札で、1枚ごとに上へ打ち出し、漆の盛り上げに見せかけたもの。
○衝角付冑(しょうかくつきかぶと): 正面に鎬(しのぎ)の立った鉢に数段のしころを付けた冑
○眉庇付冑(まびさしつきかぶと): 丸鉢に文様を透かし彫りした装飾的な大形の眉庇を設けた冑
○頸甲(あかべよろい): 古墳時代に使われた「よろい」の一部品で頸のまわり・肩胸・背の上部を覆うように作られたもの。
  挂甲(けいこう)・短甲(たんこう)に用いられており、『日本書記』に散見する。
○肩甲(かたよろい): 古墳時代に用いた鎧の部品。短甲では鉄板で作り、挂甲では小札を綴り、半円形にして、
  頸鎧(あかべのよろい)と連結し、胸、背の上部から上膊部を守るもの。
○籠手(こて) 筒袖状の家地に上膊・下膊・臂・手甲に防御の座盤を置いたものをいう。
  鎌倉時代以降座盤は鎖で繋ぐのを普通とし、筒籠手・篠籠手・鎖籠手・産籠手(うぶごて)などの種類と様々の形式が行われた。
  古くは「手纒」(たまき)「臂覆」(たおおい)といった。
○臑当(すねあて): ひざからくるぶしまでを護る小具足(こぐそく)で、籠手とともに上古から用いられている。
 馬上での戦闘が盛んになると、下脚部の防護のため必要不可欠のものとなった。

○朝鮮半島で作られた鉄製甲冑の鉄素材は高温還元間接製鋼法に基づく妙鋼製品である。
朝鮮半島の甲冑
@竪矧板鋲留短甲 竪矧板冑 A三角板革綴短甲
東莢(とうきょう)福泉洞57号墳 東莢福泉洞93号墳 陜川玉田68号墳
玉田古墳群
陝川の町の東方、双冊面城山里の高霊から南に下る新しく舗装された道路からわずかに入った、
黄江に面する丘陵上に位置する。第一次調査では大小の竪穴式石室墓12基、木槨墓36基、甕棺墓2基が発掘され、大量の遣物が出土した。
とりわけ蒙古鉢形冑8、柑甲3領・長方板革綴頸甲1、短甲1領もの武具が出土した。
23号墓では金銅伏鉢・金銅小札が採集され、また5号墓では桂甲、20号墓で桂甲・頸甲、28号墓では横矧板鋲留短甲が検出された。
28号墓では馬冑(馬面)・馬甲もあり、蒙古鉢形冑・横矧板鋲留短甲とセットになり、大刀7(素環頭大刀6と三葉環頭大刀2)・長剣3をふくむ。
これらは釜山福泉洞古墳群や金海地域の武具の出土量に匹敵する。短甲は高霊池山洞古墳群の32号墳例に類似し、豪古鉢形冑は福泉洞古墳群のものと共通する。
馬冑は福泉洞10号墓のものより後出するが和歌山県大谷古墳よりは古く、5世紀後葉ごろであろう。
第二次調査でもさらに馬冑1具が出土している。これらの馬装は中国南北朝・高句麗に普遍的で、5世紀後半代に伽耶の地にもたらされたのであろう。
馬冑は埼玉県埼玉将軍山古墳でも出土していたことが判明した。同古墳では馬装具の蛇行状鉄器(寄生)2点も伴出している。
23号墓では金鋼製冠帽の完形晶と宝珠形透彫り金鋼製品の破片(外冠?)が出土し、金銅製冑の伴出していることからも、この地の最高支配者の墓に推定されている。
また付近に多羅里という地名が遺存し、『書紀』にみえる多羅国の中心地であった可能性がつよい。
 加耶地域出土甲胄
※以前:有機物製の甲
4世紀:蒙古鉢形胄(細長板革綴胄或いは伏鉢形胄ともいう。)と縱長板短甲
○縱長板短甲・挂甲・三角板革綴短甲・方形板革綴短甲(釜山の東莢福泉洞64號墳出土の1例のみ:4世紀後半)
○挂甲:所有者の身分が上位のものに限定
○蒙古鉢形胄&挂甲:北方遊牧民族の特有な騎乗用甲胄
○縱長板短甲は主に歩戦用の甲、騎戦用にも用いられた。(掛甲の製作上の難しさ)

5世紀:蒙古鉢形胄挂甲
○挂甲が急速に普及
○5世紀中期には縱長板短甲の製作は完全中斷
○日本系甲胄の使用(三角板短甲・長板短甲・衝角附胄)
竪矧板冑 冑蒙古鉢形胄 小札縅甲 挂 甲 三角板革綴短甲 横矧板鋲留短甲 竪矧板短甲 装飾性甲冑 唐風甲冑
高句麗 4世紀 5世紀以降 全期間 - - - - - -
新 羅 全期間 - 4世紀以降 - - - 全期間 5世紀 6世紀
百 済 4世紀以降 - - 5世紀以降 5世紀以降 5世紀以降 - - -
伽 那 4世紀以降 5世紀以降 - 5世紀以降 - - 5世紀以降 - -
共 通 - - - - -
大胆仮説
竪矧板冑は新羅製、竪矧板短甲も新羅製で全期間使用し続けた。


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